僕がブログを載せている理由

かつて、ROLAND社に於いて、JUPITERと言うシンセサイザの作り方を教えて欲しいと言ったら、『自分で考えて作れ』と言われ、僕は、デジタル技術を使って、『JUPITER-80』というSynthesizerという結果を出しました。今は、ROLAND社『ラックマウントSynthesizer』という形になっていますが、そこにタイルまでは、小学校4年の頃から、半田ごてを持ち、ラジオなどを制作していて、中学へ行く頃、『楽しいマイコン教室』という本に出会い、『TK-80』の勉強をしていました。実際、『TK-80』と『基板型AnalogueSynthesizer』も使い、自動演奏を試みて、成功はしましたが、その頃は、全く『Digital・音楽』という物に、関心を持ってもらえず、半ば諦め欠けていた頃、テクノポップで、多少の人気はありましたが、僕は、それほどの大きな人気も無く、過ぎてしまいました。当時は、MC-8や、SYSTEM100Mを使っていました。その頃、単音シンセで無い、8和音シンセのJUPITERというSynthesizerに興味を持ち、作りたいと思いましたが、『自分で考えて作れ』と言われ、当時『初歩のラジオ』や『ラジオの制作』に乗っていた、短音Synthesizerを、自作していました、『マイコン』を使えば、和音シンセとして使えるのでは・・・となんとなくイメージはしていました。当時のマイコンでは、処理速度に限界があり、同時に、同じ音を出す、短音Synthesizerの塊を作る事は困難でした。僕は、まずは、『電算機』を学んでそれから考えようと思い、一時、CP/M等へも走りました。また、食べていかなければならないため、ゲームアプリなども作っていました。パソコンも、Windowsに成った頃、ソフト音源という物に、興味を持ち、少しずつ、Digital音源の構造を考え始めました。また、僕を大きく変えたのは、68系のマイコンでした。そのプログラミング技法は、ミニコンに近い機械語構造でした。アメリカへ渡り、真空管の4BitのComputerから学びました。まだ、MS-DOS頃回路シミュレータというプログラムも考えていました。それと、ソフト音源を組み合わせた、ソフトシンセサイザーの基本形を作りました。当時は、まだ、『GM音源』という発想しか有りませんでしたが、CPUを高速にする事も考え進めながら、ソフト音源のプログラムを、構造化する事により、ハードウェア化が可能なのでは・・・と思いながら、はじめは、Digital・Effectorと言うカラオケのエコーのMachineでしたが、僕自身、エレキギターも弾いていましたので、『Guitar・Effector』を先に完成させました。Digital・音源も、FM音源という発想には成りましたが、そこで、無線機の技術が必要な事に気づき、無線機の会社へ就職、無線の技術と、Digital化技術で、YAMAHA TG-77を完成させました。今のYAMAHAエレクトーンの音源の元となっています。その後、ROLAND社にもどりAnalogue・Synthesizerのたくさんの計算式をこなす、アプリを考えました。その構造化も進め、ROLANDSD-90と言う音源を作りました。それは、ROLAND社では、業務用Synthesizerに応用して欲しいという声が上がり、業務用JUPITERを完成させました。鍵盤型も進める事になり、『JUPITER-80』へと、駆け上がれました。その簡単な構造のJP-8と言う物も作り、僕は満足しています。そこに至るまでには、D.S.Pと言う、Digital・Signal・Processorと言うLSI技術を確立し、現在に至っています。僕もまた、ROLAND社JUPITERを作った技術者のように、今のDual・Core・Processor、D.S.Pについて、誰にも教える事は無いでしょう。事に、僕は、CADに向かっている事が多く、中国の原始的な事しかしていない奴だと言われ、ひどい話、中国人だと言われ中国に強制送還された事もあります。なんとか、日本へ帰ってこれましたが、一度は、アメリカへ行ったきりのつもりでもいました。日本へ帰っていなかったら『JUPITER』と言うSynthesizerの事は、忘れていたでしょう。今になって、大学の教授らにも、原始的だと馬鹿にされる中、学生にまで、そっぽ向かれていますが、エレクトーン奏者としては、コロナ前、かなりの人気はありました。技術的な事は、誰にも教える事は、まず無いでしょう。たとえ、インターネットが、廃れたとしても、それはそれで、時代の流れだと思っています。僕は、誰にも技術は、教える事は無いでしょう。誰かが、何もなすところから進められたら・・・。『夢』を持ち『根性』で乗り越える物だと思っています。